Ads by Google
新しい記事を書く事で広告が消せます。
現代語訳般若心経-玄侑宗久さん

みなさま、明けましておめでとうございます。
今年も、よろしくおねがいいたします。
さて、何を書いてよいやら(^_^;)
あまり、まとまってはいない。
とりあえず、現代語訳般若心経-玄侑宗久さんについてお話したいと思う。

この本は昨年11月ごろから2回ほど読んで、なかなか好印象の本である。
しかし本当のことを言えば、意外に良かったという印象か。
以前から、玄侑宗久さんについては、お坊さんでありながらも、2001年「中陰の花」で第125回芥川賞受賞となった作家ということで、興味を抱いた次第で、作品もいくつか読んだ。
玄侑宗久氏のホームページはこちら
若く聡明で博識、といった感じであるものの、正直、僕の無智によるものとも思うが、わかりづらいという印象は否めなかった。
しかし、豊富な語彙を駆使する作家という立場で、さらに難解で哲学的な禅仏教を読み解くのだから簡単には済むはずがない、とも思うのだ。
さて、それでも新書の題名に惹かれて読んでみた。
彼は序文にかく述べている。
『この経典は、すべてが理知によって解釈されるはずだという科学主義に対し、「いのち」や「しあわせ」というリアリティーはそうではないのだと、いわば真っ向から挑戦状を突きつけている。
本文で詳しく述べるが、仏教の精密かつ哲学的でさえある認識を、含みつつ超える道を示し、理知とは別な「知」の様式を示そうとしたのである。』
この『理知とは別な「知」の様式』とは、知的理解から体験知へと転換されていかないとよくわからないんだよ、ということを諭しているようだ。
たとえば禅もそういう体験知かもしれない。
さらにまた、釈尊に弟子が「死んだら人はどうなるのか」と尋ねたのに対し、黙って何かを燃やしてその姿をみせて「沈黙」をもって答えたという話もあるが、言葉を介した合理的な説明がかえって理知として停滞し「目覚め」の体験を遠ざけることを釈尊は熟知されていたのではないかとも思われるようである。
こうした認識への新たなる道程は確かにしっかりとハラに据えておかねばならないだろう。
さて、本文としての般若心経の解説は当然僕にできるわけもないので、玄侑宗久さんのお話を新書にてお聞き頂きたい。
ただ、今までの仏教書とは一味ことなることだけは事実で、作者みずから『観自在菩薩』になりかわって、舎利弗(シャリホツ)さんに語りかけるという筋立てになっているので、なかなか面白い。
如是我聞/私はかくのごとく聞いている。
お釈迦様が悟りの深い禅定に入っている最中に、舎利弗(シャリホツ)さんが聞いたようで、
「もし立派な若者が般若波羅蜜多(智慧の完成)を実践したいというのならどのように答えてあげればいいでしょう」と・・・
お釈迦様は禅定の最中だったので、代わりに観自在菩薩さんがお答えになった。
舎利弗さん、実は私、その般若波羅蜜多のための実践をしているときに、五蘊(ごうん)は皆「空」なんだってわかっちゃったんですよ。
・・・・・
最初の導入だけ聞いてもなかなか面白そうでしょ。
さてしかし、わからなくてもいいんだよ、というのもまたある意味真実で、概念を少し理解しただけでもいいのではないかとも思っている。
テーマ:ひとりごとのようなもの - ジャンル:日記
光陰矢の如し(~_~;)

久しぶりである・・・・・光陰矢の如し(~_~;)ですな。
特に書きたくなって、書いている訳でもなしであるが、時候の挨拶といったところかもしれない。
このブログは、本を読んで、感じて、思うところを、書きたいように書こうと立ち上げたものであったが、パラパラと読書は進むものの、なかなか書けないものだと、静かに、反省しつつある(ーー;)
昨年の11月21日に親父が亡くなり、一周忌も残すところ2ヶ月。
相続の一件も今月には終わる段取りだ。
さらに、8月もなんとか終わり、秋の陣となるわけである。
お話は変わって、写真はご存知、イビチャ・オシム氏である。
当然、『オシムの言葉』も買って読んだ。
サッカーなどは論じる程知るわけも無く、正真正銘の「にわかサッカーふぁん」である。
というか、「オシムサッカーファン」かもしれない。
しかし、この人、なかなか日本人の心をとらえる発言も多く、おもしろい。
「ライオンに襲われた野うさぎが逃げ出す時に肉離れを起こしますか? 準備が足りないのです」
「限界には限界はありません。限界を超えれば、次の限界が生まれるのです」
こんな言葉で眼前の日常の現実を端的に表現し、また志向すべき道を諭している訳で、おもしろい。
今まで、日本代表の国際試合も4戦ほどあって、3勝1敗という結果のようだが、メディアも得点が入るゴールシーンと同じくらいにオシム監督のその時の様子を撮っているだけあって、興味津々といったところかもしれない。
残念な結果のワールドカップ後にどこからともなく突然のように現れたオシムさんに驚き、お話を聞いているうちに、そのサッカー人生とともに人間としてのオシム氏の魅力に日本サッカー界も含めてとりつかれつつあるようにも思える。
最近のオシム氏の発言も時には辛らつ、過激なものも多い。
しかし、長い眼で考えてみても、ヨーロッパや南米とのサッカーの実力差は一朝一夕ではいかんともしがたく、大いなる課題が山積していることは間違いの無いところだろう。
そして、オシム氏の発言や指導もそのための、厳しい叱咤・激励と受け止めるのがごく自然なことと思う。
ともあれ、さらにこれから4年間もオシム氏の哲学がそのサッカー指導とともに聴く事ができるわけで、日本代表の活躍とともに大変おもしろく期待していきたいと思っている。

テーマ:ひとりごとのようなもの - ジャンル:日記
本と桜と墓参り(^_^;)

日曜日ぐらいしか、落着いて書けないのも寂しいものであるが、いたしかたなし(^_^;)
本日はやや遅めの墓参りということで、早朝より準備して出発した次第である。
また、今年の桜のお花見も仕事柄今日限りかもしれず、さらに下手をすると、午後からは雨も降り出すかもしれないということで朝の8時前からバタバタと霊園に向かったのだ。
おかげで車も少なく、目黒通り、環状七号線、五日市街道、と順調に進み、武蔵野市役所前の満開の桜並木(写真↑)を見ることが出来た。
もっとも、ゆっくり歩いてデジカメで撮りたいものだが徐々に車も増え、走りながら撮影した次第。

さらに、青梅街道を経て霊園に入る。
こちらも広々としたもので、朝の散歩をされてる方がチラホラ居る程度でところどころ満開の桜も眺められた。(写真↑)

この写真↑は(^_^;)・・・最近は玉砂利などもショップでも売っているらしく、家内が調達して(小奇麗なつもりで)お墓に撒いたもので、まぁまぁの景観(^_^;)となった。
おかげさまで、とりあえず午前中は、ときおり陽もさして、無事墓参りとお花見を済ますことが出来た(^^ゞ
武道館近辺・千鳥が淵や新宿御苑、また上野公園など、見事な桜も見たかったとも思うのだが、最近は時間も体力も無くなって来つつあるので、今年はこれでよしとするしかなさそうである(^_^;)

ほんとうはこのブログにも間に合わせたかったのだが、一週間で予定していた一冊の本も完読できず、読書力も衰弱しそうで、困ったものである(-_-;)
今は、『イエスの生涯』(遠藤周作著、新潮文庫)を読ませてもらっているが、ナザレの大工としての若きイエスが預言者ヨハネの洗礼を受け、いかにイエスとして生きそして死んでいったのかを、教えて頂けそうである。
さらに言えば、
『幸いなるかな 心貧しき人 天国は彼等のものなればなり
幸いなるかな 泣く人 彼等は慰めらるべければなり』
これは、有名な「山上の垂訓」であるが、--人々への神の愛の証明--という、彼(イエス)の真意であり生涯を貫く最大のテーマ、にイエスがどのように苦闘されたかを学びたいと思うのである
3月もボチボチ・・・

うーむ、日々のつれづれ、で、日記、ということで、ご報告(^_^;)
日比谷線にて銀座の映画館へ、家内とともに出かけた(^_^;)のである。
『かもめ食堂』という映画であった。(到着してわかったが(^_^;)・・・)
http://www.kamome-movie.com/
http://moviessearch.yahoo.co.jp/detail?ty=mv&id=323638
フィンランドのヘルシンキ市内の、とある食堂を営み始めた女性主人を中心に、日本からの旅行者もともに食堂に協力する形で参画し、彼女たちと地元の人々との暖かなこころの交流を描いた作品であった。
フィンランドというちょっと日本とは隔絶した環境の中で、森あり海あり湖ありで、夏場と思われるが、素晴らしいロケーションである。
小林聡美、片桐はいり、もたいまさこ といったベテランの個性的な女優陣も安定した演技で、好演している。
とりたてて大事件もないが、一人一人日本人であれ、フィンランド人であれ、人生において苦悩を抱えて生きているわけだ。
その苦悩を静かに受け止めながら、美味しいコーヒーとおにぎりとシナモンロールと洋食を作りながら、癒していくのである。
前回は『平凡さの中に奇跡がある』というお話をご紹介させて頂いたのだが、映画を見ながら、いわば、お客様との良好な人間関係の形成も、ほんとに奇跡的なことであることを改めて感じさせて頂いたのである。
『マホメットの奇跡』というお話・・・
先日、ある集いの講演のなかで『マホメットの奇跡』というお話を初めて、聞いた。
コーランも読んだことはないが、イスラムの教えもたぶん素敵な教えに違いない。
お話は、こうである。
『ある時、マホメットが、
「私は何月何日に奇跡を起こすから、みんな集まれ!」と伝えました。
するとその日マホメットのやる奇跡を見ようと大勢の人が集まって来ました。
マホメットは大勢の人々に向かって言いました。
「向こうに山があるが、あの山をこっちに動かしてみせる」と。
人々は奇跡が見えると、かたずを呑んで見守っています。
マホメットは「おーい山よ、こっちへ来い!」と叫びました。
そうすると・・・・・山はもちろん、動きません。
しばらくしてマホメットはまた叫びます。
「おーい山よ、こっちへ来い!」
しかし、やはり山は動きません。
もう一度彼は繰り返しましたが山はやっぱり動きません。
みんなは「なーんだ」という顔をしています。
そういう群集に向かってマホメットは言ったのです。
「私は、三度も山に向かって呼びかけました。しかし、山は動きません。だとすれば、こっちが歩いていくよりしようがありません」
そして、マホメットはさっさと山に向かって歩いていきました。
つまり、山に向かって歩いていくのは、山がこっちに近づいていることです。自分が近づけば向こうがこっちに来るのと同じことなのです。』
僕はお話を聞いていて、なるほど、ほんとうの奇跡とは、みずから山に近づこうとする、その一歩のことだったんだなぁとしみじみ感じた次第であるが・・・
ひろさちや氏(仏教学者)の表現でいくと「マホメットはそう言っていますが、私たちはそれが奇跡だということがわかりません。つまり、ごく当たり前のことが素晴らしい奇跡だということをなかなか理解できません。」
となる。(もちろん、氏は、平凡さの中に奇跡があるのです、と言うのだ。)
奇跡のように見えて(奇跡かもしれないが)それでも僕たちでももしかしたら見方を知ったら可能かもしれない、といったお話もご紹介したい。
先日お話した河合隼雄氏「こころの処方箋」16章の『こころの中の勝負は51対49のことが多い』というお話である。
51対49というと結構拮抗した数字で、甲乙つけがたいというのは誰にでもわかる。
しかし、現実は、51-49=2 であり、51対49は、表面上 2対0 としか見えない場合が多い。
そして見えないことしか信じられないと判断を見誤ってしまう事ともなりかねない。
ある時、無理に連れて来られた登校拒否の高校生が、心理療法家の先生に対し、椅子を後ろに向けて背を向けて座ったという。
先生はこれを見て、「これはむしろ、やりやすい子がきたぞ」と思ったそうで、あった瞬間から「お前なんかに話をするもんか」と対話を開始してくれている、と受け止めている。
そこで「これはこれは、僕とは話す気が全然ないらしいね」などと言うと、
振り向いて「当たり前やないか、こんなことしやがって、ウチの親父はけしからん・・・」という具合に、対話が弾んでいく、そうである(^_^;)
『こんな時に私が落ち着いていられるのは、こころの中のことは、だいたい51対49くらいのところで勝負がついている事が多いと思っているからである。この高校生にしても、カウンセラーのところなど行くものか、という気持ちの反面ひょっとしてカウンセラーという人が自分の苦しみをわかってくれるかもしれないと思っているのだ。人の助けなど借りるものか、という気持ちと、わらにすがってでも助かりたい、という気持ちが共存している。しかし、ものごとをどちらかに決める場合は、その相反する気持ちの間で勝負が決まり、「助けを借りない」という方が勝つと、それだけが前面に出て来て主張される。
しかし、その実はその反対の傾向が潜在していて、それは、51対49と言いたいほどのきわどい差であることが多い。・・・・・』
専門的な場合はともかくとして(^_^;)、意識上の2対0ばかりにとらわれずに、無意識のなかでは49対49で葛藤する相反するこころがあることを受け止めて、決め付けずに本来の可能性を信じていくことは大切なことではないかと感じた次第である。
うっっ、真夜中を過ぎてしまった(>_<)
今夜は、これにて。
コーランも読んだことはないが、イスラムの教えもたぶん素敵な教えに違いない。
お話は、こうである。
『ある時、マホメットが、
「私は何月何日に奇跡を起こすから、みんな集まれ!」と伝えました。
するとその日マホメットのやる奇跡を見ようと大勢の人が集まって来ました。
マホメットは大勢の人々に向かって言いました。
「向こうに山があるが、あの山をこっちに動かしてみせる」と。
人々は奇跡が見えると、かたずを呑んで見守っています。
マホメットは「おーい山よ、こっちへ来い!」と叫びました。
そうすると・・・・・山はもちろん、動きません。
しばらくしてマホメットはまた叫びます。
「おーい山よ、こっちへ来い!」
しかし、やはり山は動きません。
もう一度彼は繰り返しましたが山はやっぱり動きません。
みんなは「なーんだ」という顔をしています。
そういう群集に向かってマホメットは言ったのです。
「私は、三度も山に向かって呼びかけました。しかし、山は動きません。だとすれば、こっちが歩いていくよりしようがありません」
そして、マホメットはさっさと山に向かって歩いていきました。
つまり、山に向かって歩いていくのは、山がこっちに近づいていることです。自分が近づけば向こうがこっちに来るのと同じことなのです。』
僕はお話を聞いていて、なるほど、ほんとうの奇跡とは、みずから山に近づこうとする、その一歩のことだったんだなぁとしみじみ感じた次第であるが・・・
ひろさちや氏(仏教学者)の表現でいくと「マホメットはそう言っていますが、私たちはそれが奇跡だということがわかりません。つまり、ごく当たり前のことが素晴らしい奇跡だということをなかなか理解できません。」
となる。(もちろん、氏は、平凡さの中に奇跡があるのです、と言うのだ。)
奇跡のように見えて(奇跡かもしれないが)それでも僕たちでももしかしたら見方を知ったら可能かもしれない、といったお話もご紹介したい。
先日お話した河合隼雄氏「こころの処方箋」16章の『こころの中の勝負は51対49のことが多い』というお話である。
51対49というと結構拮抗した数字で、甲乙つけがたいというのは誰にでもわかる。
しかし、現実は、51-49=2 であり、51対49は、表面上 2対0 としか見えない場合が多い。
そして見えないことしか信じられないと判断を見誤ってしまう事ともなりかねない。
ある時、無理に連れて来られた登校拒否の高校生が、心理療法家の先生に対し、椅子を後ろに向けて背を向けて座ったという。
先生はこれを見て、「これはむしろ、やりやすい子がきたぞ」と思ったそうで、あった瞬間から「お前なんかに話をするもんか」と対話を開始してくれている、と受け止めている。
そこで「これはこれは、僕とは話す気が全然ないらしいね」などと言うと、
振り向いて「当たり前やないか、こんなことしやがって、ウチの親父はけしからん・・・」という具合に、対話が弾んでいく、そうである(^_^;)
『こんな時に私が落ち着いていられるのは、こころの中のことは、だいたい51対49くらいのところで勝負がついている事が多いと思っているからである。この高校生にしても、カウンセラーのところなど行くものか、という気持ちの反面ひょっとしてカウンセラーという人が自分の苦しみをわかってくれるかもしれないと思っているのだ。人の助けなど借りるものか、という気持ちと、わらにすがってでも助かりたい、という気持ちが共存している。しかし、ものごとをどちらかに決める場合は、その相反する気持ちの間で勝負が決まり、「助けを借りない」という方が勝つと、それだけが前面に出て来て主張される。
しかし、その実はその反対の傾向が潜在していて、それは、51対49と言いたいほどのきわどい差であることが多い。・・・・・』
専門的な場合はともかくとして(^_^;)、意識上の2対0ばかりにとらわれずに、無意識のなかでは49対49で葛藤する相反するこころがあることを受け止めて、決め付けずに本来の可能性を信じていくことは大切なことではないかと感じた次第である。
うっっ、真夜中を過ぎてしまった(>_<)
今夜は、これにて。

