2006-03

3月もボチボチ・・・

kamome


うーむ、日々のつれづれ、で、日記、ということで、ご報告(^_^;)

日比谷線にて銀座の映画館へ、家内とともに出かけた(^_^;)のである。

『かもめ食堂』という映画であった。(到着してわかったが(^_^;)・・・)
http://www.kamome-movie.com/
http://moviessearch.yahoo.co.jp/detail?ty=mv&id=323638

フィンランドのヘルシンキ市内の、とある食堂を営み始めた女性主人を中心に、日本からの旅行者もともに食堂に協力する形で参画し、彼女たちと地元の人々との暖かなこころの交流を描いた作品であった。

フィンランドというちょっと日本とは隔絶した環境の中で、森あり海あり湖ありで、夏場と思われるが、素晴らしいロケーションである。

小林聡美、片桐はいり、もたいまさこ といったベテランの個性的な女優陣も安定した演技で、好演している。

とりたてて大事件もないが、一人一人日本人であれ、フィンランド人であれ、人生において苦悩を抱えて生きているわけだ。
その苦悩を静かに受け止めながら、美味しいコーヒーとおにぎりとシナモンロールと洋食を作りながら、癒していくのである。

前回は『平凡さの中に奇跡がある』というお話をご紹介させて頂いたのだが、映画を見ながら、いわば、お客様との良好な人間関係の形成も、ほんとに奇跡的なことであることを改めて感じさせて頂いたのである。

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『マホメットの奇跡』というお話・・・

先日、ある集いの講演のなかで『マホメットの奇跡』というお話を初めて、聞いた。
コーランも読んだことはないが、イスラムの教えもたぶん素敵な教えに違いない。

お話は、こうである。
『ある時、マホメットが、
「私は何月何日に奇跡を起こすから、みんな集まれ!」と伝えました。
するとその日マホメットのやる奇跡を見ようと大勢の人が集まって来ました。
マホメットは大勢の人々に向かって言いました。
「向こうに山があるが、あの山をこっちに動かしてみせる」と。
人々は奇跡が見えると、かたずを呑んで見守っています。
マホメットは「おーい山よ、こっちへ来い!」と叫びました。
そうすると・・・・・山はもちろん、動きません。
しばらくしてマホメットはまた叫びます。
「おーい山よ、こっちへ来い!」
しかし、やはり山は動きません。 
もう一度彼は繰り返しましたが山はやっぱり動きません。
みんなは「なーんだ」という顔をしています。
そういう群集に向かってマホメットは言ったのです。

「私は、三度も山に向かって呼びかけました。しかし、山は動きません。だとすれば、こっちが歩いていくよりしようがありません」

そして、マホメットはさっさと山に向かって歩いていきました。
つまり、山に向かって歩いていくのは、山がこっちに近づいていることです。自分が近づけば向こうがこっちに来るのと同じことなのです。』

僕はお話を聞いていて、なるほど、ほんとうの奇跡とは、みずから山に近づこうとする、その一歩のことだったんだなぁとしみじみ感じた次第であるが・・・
ひろさちや氏(仏教学者)の表現でいくと「マホメットはそう言っていますが、私たちはそれが奇跡だということがわかりません。つまり、ごく当たり前のことが素晴らしい奇跡だということをなかなか理解できません。」
となる。(もちろん、氏は、平凡さの中に奇跡があるのです、と言うのだ。)

奇跡のように見えて(奇跡かもしれないが)それでも僕たちでももしかしたら見方を知ったら可能かもしれない、といったお話もご紹介したい。

先日お話した河合隼雄氏「こころの処方箋」16章の『こころの中の勝負は51対49のことが多い』というお話である。

51対49というと結構拮抗した数字で、甲乙つけがたいというのは誰にでもわかる。
しかし、現実は、51-49=2 であり、51対49は、表面上 2対0 としか見えない場合が多い。
そして見えないことしか信じられないと判断を見誤ってしまう事ともなりかねない。

ある時、無理に連れて来られた登校拒否の高校生が、心理療法家の先生に対し、椅子を後ろに向けて背を向けて座ったという。

先生はこれを見て、「これはむしろ、やりやすい子がきたぞ」と思ったそうで、あった瞬間から「お前なんかに話をするもんか」と対話を開始してくれている、と受け止めている。
そこで「これはこれは、僕とは話す気が全然ないらしいね」などと言うと、
振り向いて「当たり前やないか、こんなことしやがって、ウチの親父はけしからん・・・」という具合に、対話が弾んでいく、そうである(^_^;)

『こんな時に私が落ち着いていられるのは、こころの中のことは、だいたい51対49くらいのところで勝負がついている事が多いと思っているからである。この高校生にしても、カウンセラーのところなど行くものか、という気持ちの反面ひょっとしてカウンセラーという人が自分の苦しみをわかってくれるかもしれないと思っているのだ。人の助けなど借りるものか、という気持ちと、わらにすがってでも助かりたい、という気持ちが共存している。しかし、ものごとをどちらかに決める場合は、その相反する気持ちの間で勝負が決まり、「助けを借りない」という方が勝つと、それだけが前面に出て来て主張される。
しかし、その実はその反対の傾向が潜在していて、それは、51対49と言いたいほどのきわどい差であることが多い。・・・・・』

専門的な場合はともかくとして(^_^;)、意識上の2対0ばかりにとらわれずに、無意識のなかでは49対49で葛藤する相反するこころがあることを受け止めて、決め付けずに本来の可能性を信じていくことは大切なことではないかと感じた次第である。

うっっ、真夜中を過ぎてしまった(>_<)
今夜は、これにて。

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またあした(^o^)丿

気がつくとまた、11時をまわっている(>_<)

書き始めると、考えながらなので(^_^;)1時ごろになってしまう。

若くないので、今日は、おやすみ(^^ゞ

また、あした(^o^)丿

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『人間理解は命がけの仕事』らしい・・・

僕は、河合隼雄氏のシンパ(同調者(^_^;)か)である。
なかなか読み至ってはおらないが、河合氏の本も150冊ほど収集して所持している(^_^;)

数ある著作の中の一つに『こころの処方箋』なるエッセイ集がある。
その中の第20章が、タイトルの『人間理解は命がけの仕事である』というお話だ。

話は戻るが、岩波新書に『未来への記憶(上・下)』という本や岩波書店の『深層意識への道-グーテンベルクの森-』という氏の自伝的ブックもあり、わりとざっくばらんな語り調子で書かれた大変面白い本があり、興味のある方は読まれることをお勧めする。

ところで、最近ではたまに、ラジオの人生相談なんかでも回答者が「問題なのはお子さん、ではなくて、お母さんの"無意識"なんですが・・・」などと、さほど違和感もなく語られる『無意識あるいは深層意識』であるが、そちらの(特に、ユング心理学)の心理療法家としてつとに知られている方である。

さて、『こころの処方箋』のこの章では、たとえとして、相談者が登校拒否の高校生の例や、たとえ夫婦であってもお互いに異なる人生観をもっている場合の例を述べるのだが、前者の高校生が少しずつ心の内を話し出すものの、親の束縛から精神的虐待といった意識を改めて感じ、その怒り頂点に達し、両親をバットで殴る決心をして、カウンセラーに告げたりしたら、カウンセラーは、その態度いかんによっては時として、命懸けの対応になってくることは、私にも想像できる。
今まで、相談者を理解していたというのは「ふり」をしていただけだったのか、という厳しい問いかけが与えられるからである。

『うっかり他人のことを真に理解しようとし出すと、自分の人生観が根っこのあたりでぐらついてくる。これはやはり、「命懸け」と表現していいことではなかろうか。実際に、自分の根っこをぐらつかせずに、他人を理解しようとするのなど、甘すぎるのである。』と述べられている。

ここらへんのお話もほんとうに、「うつ」なり「統合失調症」なりの場合のご相談となると、またまことに大変なお仕事であり、教育現場におかれる種々の事例もまた深刻な問題提起となっているのは想像に難くない。

さて、ここでの問題は自分のことであるが・・・意外と簡単に、人さまのことを判断したり、時には心の中で裁判官になっていろいろと決め付けていることが多い。
反面、そう決め付けないと、自分のバランスが崩れかかるというのが怖いのかもしれないが、どのように生きていったらよいのかむずかしいだけに、素人といえども、氏に習って、もう少し反省して"命懸け"の意識を高めて人さまのお話を聞くように心がけてみた方が、何事もよさそうである(^_^;)

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楽は苦の種、苦は楽の種・・・

今年に入って、どちらかと言うと、仕事上の失敗が多い(^_^;)

最初のコメントで、苦しむことの意味、を問うことの大切さを書いたが、何かしら反省点は多く、ミスの分だけ、内部改革の必要性を自覚しないと大変なことになる、という警告ではあろう。

仏教の教えの一つに、第二の矢、というお話があるが、ある者がお釈迦さまに『仏の教えを聞いた人と聞かない人とでは、どのような違いがあるのか』と尋ねたところ、「苦受の第一の矢を受けた上に、嘆き悲しみ混乱して第二の矢を受けてしまうか、一の矢は受けても第二の矢を受けることがないかの違いである」と教えられ、"第二の矢は、自分の不安が作り出すのだ"ということを諭したそうである。

楽だから・・・とか、苦しいから・・・とかは、素直な人情で好き嫌いが分かれるところであるが、改めて考え直すと、あの大失敗のおかげで本当に怖さを自覚し、二度と過ちを犯すまいと努力して信頼してもらえる人間にちかずけた、とかあるいは逆に、あの成功に囚われて本来の慎重さを欠いて結果的に失敗してしまった、などというようなことはわりと多いのではなかろうか。

これらはおそらく自分の見方の甘さ(自己中心性)によるものとも思われるが、例えば、これは不味い事が起きたという場合でも、また、これは都合よく有難いことが起きたという場合でも、それが将来においても果たしてどういう意味をもつものであるかは、なかなかわからないというのが正直なとこではないだろうか。

あまりお話はまとまりそうにないのだが(^_^;)・・・・・ともかく、『楽は苦の種、苦は楽の種・・・』と唱えつつ平常心を保ちながら目の前の困難な山々を乗り越えていくことが人生なのだと思う。

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ただひとつのことを深く学ぶべし・・・

今日は出社。段取り的に明後日の祭日も出社せざるを得ないようだ。
まぁ、いたしかたなし(^_^;)

業務の合間に、『「正法眼蔵随聞記」に学ぶ』というサイトを読んでいて、以下の文章にこころひかれた。(以下、訳文を引用)

『(道元禅師が)夜話に言われた。
俗世間の人も、多くのことをあれこれと学んで、緒局そのどれもよくできないよりは、 只一つの事でよいから、十分に極めて、人前に出ても恥ずかしくない程に学ぶべきである。ましてや、俗世間を超えた仏法は、遠い昔から今日に至るまで、かつて修めた事も習った事もない教えである。だから今もよくわからないのである。それに、自分の生まれつきも劣っているのであれぼ、高遠な仏法について、多くのことを学ぼうとしても、そのどれ一つ成就できるものではない。一つの事を専問にやろうとしても、生まれつき素質の劣っているものは、なかなか一生にきわめられるものではない。それ故に仏道を学ぶものは、つとめて一つの事に専心しなければならない。』
(『随聞記』巻二、第十一節の道元禅師のお示し。鏡島元隆著)

もっぱら、仏の悟り、という立場から言えば、例えば学歴としての小学校卒の方も東大法科卒の方もたいして違いは無く、みな『我が性(しょう)も拙(つた)なし。』の範疇であり、『一事を専らにせんすら本性昧劣(まいれつ)の根器』に他ならない。
自分の愚かさを思い知り、真理に対して謙虚であること、大乗仏教におけるほとけは、まさしく無限の彼方にある、とも言え、ひろさちや氏はそれ故、はからいを捨てよとも説く。

もちろん、我輩は情けないほど愚かなる俗世間の人間であるわけで、ひとつのことに懸命に努力して、(願わくば、極めて)いくことが大事であると思い至るしかなさそうである。

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「苦しむことって意味がある」らしい

いくつかのブログをついつい書いている。
趣旨が違うのだ、と本人は思っている。

毎日仕事をしながら生きているのだが、「不安でしょうがない」とか「苦しくてしょうがない」というほどのことはない。
自分自身、それなりに生意気で、(本質的には)あまり妥協する気はない。
時として他人を蔑視している自分も見える。

それでも、苦しい日々には、違いない。
ただここ数年、いろいろ感じることがあって、「苦しむことって意味がある」らしいということに納得しつつある。
その意味で日々のこころはさほど重くも無くなっているのだ。

ここでの長文は、避けよう。
できれば今まで読みながら感じた本を紹介しつつ考えたいところだ。

今日は、これまで。

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