『マホメットの奇跡』というお話・・・
先日、ある集いの講演のなかで『マホメットの奇跡』というお話を初めて、聞いた。
コーランも読んだことはないが、イスラムの教えもたぶん素敵な教えに違いない。
お話は、こうである。
『ある時、マホメットが、
「私は何月何日に奇跡を起こすから、みんな集まれ!」と伝えました。
するとその日マホメットのやる奇跡を見ようと大勢の人が集まって来ました。
マホメットは大勢の人々に向かって言いました。
「向こうに山があるが、あの山をこっちに動かしてみせる」と。
人々は奇跡が見えると、かたずを呑んで見守っています。
マホメットは「おーい山よ、こっちへ来い!」と叫びました。
そうすると・・・・・山はもちろん、動きません。
しばらくしてマホメットはまた叫びます。
「おーい山よ、こっちへ来い!」
しかし、やはり山は動きません。
もう一度彼は繰り返しましたが山はやっぱり動きません。
みんなは「なーんだ」という顔をしています。
そういう群集に向かってマホメットは言ったのです。
「私は、三度も山に向かって呼びかけました。しかし、山は動きません。だとすれば、こっちが歩いていくよりしようがありません」
そして、マホメットはさっさと山に向かって歩いていきました。
つまり、山に向かって歩いていくのは、山がこっちに近づいていることです。自分が近づけば向こうがこっちに来るのと同じことなのです。』
僕はお話を聞いていて、なるほど、ほんとうの奇跡とは、みずから山に近づこうとする、その一歩のことだったんだなぁとしみじみ感じた次第であるが・・・
ひろさちや氏(仏教学者)の表現でいくと「マホメットはそう言っていますが、私たちはそれが奇跡だということがわかりません。つまり、ごく当たり前のことが素晴らしい奇跡だということをなかなか理解できません。」
となる。(もちろん、氏は、平凡さの中に奇跡があるのです、と言うのだ。)
奇跡のように見えて(奇跡かもしれないが)それでも僕たちでももしかしたら見方を知ったら可能かもしれない、といったお話もご紹介したい。
先日お話した河合隼雄氏「こころの処方箋」16章の『こころの中の勝負は51対49のことが多い』というお話である。
51対49というと結構拮抗した数字で、甲乙つけがたいというのは誰にでもわかる。
しかし、現実は、51-49=2 であり、51対49は、表面上 2対0 としか見えない場合が多い。
そして見えないことしか信じられないと判断を見誤ってしまう事ともなりかねない。
ある時、無理に連れて来られた登校拒否の高校生が、心理療法家の先生に対し、椅子を後ろに向けて背を向けて座ったという。
先生はこれを見て、「これはむしろ、やりやすい子がきたぞ」と思ったそうで、あった瞬間から「お前なんかに話をするもんか」と対話を開始してくれている、と受け止めている。
そこで「これはこれは、僕とは話す気が全然ないらしいね」などと言うと、
振り向いて「当たり前やないか、こんなことしやがって、ウチの親父はけしからん・・・」という具合に、対話が弾んでいく、そうである(^_^;)
『こんな時に私が落ち着いていられるのは、こころの中のことは、だいたい51対49くらいのところで勝負がついている事が多いと思っているからである。この高校生にしても、カウンセラーのところなど行くものか、という気持ちの反面ひょっとしてカウンセラーという人が自分の苦しみをわかってくれるかもしれないと思っているのだ。人の助けなど借りるものか、という気持ちと、わらにすがってでも助かりたい、という気持ちが共存している。しかし、ものごとをどちらかに決める場合は、その相反する気持ちの間で勝負が決まり、「助けを借りない」という方が勝つと、それだけが前面に出て来て主張される。
しかし、その実はその反対の傾向が潜在していて、それは、51対49と言いたいほどのきわどい差であることが多い。・・・・・』
専門的な場合はともかくとして(^_^;)、意識上の2対0ばかりにとらわれずに、無意識のなかでは49対49で葛藤する相反するこころがあることを受け止めて、決め付けずに本来の可能性を信じていくことは大切なことではないかと感じた次第である。
うっっ、真夜中を過ぎてしまった(>_<)
今夜は、これにて。
コーランも読んだことはないが、イスラムの教えもたぶん素敵な教えに違いない。
お話は、こうである。
『ある時、マホメットが、
「私は何月何日に奇跡を起こすから、みんな集まれ!」と伝えました。
するとその日マホメットのやる奇跡を見ようと大勢の人が集まって来ました。
マホメットは大勢の人々に向かって言いました。
「向こうに山があるが、あの山をこっちに動かしてみせる」と。
人々は奇跡が見えると、かたずを呑んで見守っています。
マホメットは「おーい山よ、こっちへ来い!」と叫びました。
そうすると・・・・・山はもちろん、動きません。
しばらくしてマホメットはまた叫びます。
「おーい山よ、こっちへ来い!」
しかし、やはり山は動きません。
もう一度彼は繰り返しましたが山はやっぱり動きません。
みんなは「なーんだ」という顔をしています。
そういう群集に向かってマホメットは言ったのです。
「私は、三度も山に向かって呼びかけました。しかし、山は動きません。だとすれば、こっちが歩いていくよりしようがありません」
そして、マホメットはさっさと山に向かって歩いていきました。
つまり、山に向かって歩いていくのは、山がこっちに近づいていることです。自分が近づけば向こうがこっちに来るのと同じことなのです。』
僕はお話を聞いていて、なるほど、ほんとうの奇跡とは、みずから山に近づこうとする、その一歩のことだったんだなぁとしみじみ感じた次第であるが・・・
ひろさちや氏(仏教学者)の表現でいくと「マホメットはそう言っていますが、私たちはそれが奇跡だということがわかりません。つまり、ごく当たり前のことが素晴らしい奇跡だということをなかなか理解できません。」
となる。(もちろん、氏は、平凡さの中に奇跡があるのです、と言うのだ。)
奇跡のように見えて(奇跡かもしれないが)それでも僕たちでももしかしたら見方を知ったら可能かもしれない、といったお話もご紹介したい。
先日お話した河合隼雄氏「こころの処方箋」16章の『こころの中の勝負は51対49のことが多い』というお話である。
51対49というと結構拮抗した数字で、甲乙つけがたいというのは誰にでもわかる。
しかし、現実は、51-49=2 であり、51対49は、表面上 2対0 としか見えない場合が多い。
そして見えないことしか信じられないと判断を見誤ってしまう事ともなりかねない。
ある時、無理に連れて来られた登校拒否の高校生が、心理療法家の先生に対し、椅子を後ろに向けて背を向けて座ったという。
先生はこれを見て、「これはむしろ、やりやすい子がきたぞ」と思ったそうで、あった瞬間から「お前なんかに話をするもんか」と対話を開始してくれている、と受け止めている。
そこで「これはこれは、僕とは話す気が全然ないらしいね」などと言うと、
振り向いて「当たり前やないか、こんなことしやがって、ウチの親父はけしからん・・・」という具合に、対話が弾んでいく、そうである(^_^;)
『こんな時に私が落ち着いていられるのは、こころの中のことは、だいたい51対49くらいのところで勝負がついている事が多いと思っているからである。この高校生にしても、カウンセラーのところなど行くものか、という気持ちの反面ひょっとしてカウンセラーという人が自分の苦しみをわかってくれるかもしれないと思っているのだ。人の助けなど借りるものか、という気持ちと、わらにすがってでも助かりたい、という気持ちが共存している。しかし、ものごとをどちらかに決める場合は、その相反する気持ちの間で勝負が決まり、「助けを借りない」という方が勝つと、それだけが前面に出て来て主張される。
しかし、その実はその反対の傾向が潜在していて、それは、51対49と言いたいほどのきわどい差であることが多い。・・・・・』
専門的な場合はともかくとして(^_^;)、意識上の2対0ばかりにとらわれずに、無意識のなかでは49対49で葛藤する相反するこころがあることを受け止めて、決め付けずに本来の可能性を信じていくことは大切なことではないかと感じた次第である。
うっっ、真夜中を過ぎてしまった(>_<)
今夜は、これにて。
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